1923年9月1日、お昼前に大きな地震があり銀座にある奉公先の店舗も街もめちゃくちゃになり、片付けもあったのですがご主人から「すぐに両国の家に戻れ」といとまを頂いたので、急ぎ墨田区みどりにある家に戻ろうとしましたが、蔵前橋は通行止にされ事情を説明してもどうしても通してもらえませんでした。仕方なく、護岸から飛込み泳いで渡ろうとした瞬間に首元を掴まれ「馬鹿やろー、見てろ!」と知らない方に止められ墨田区側の護岸を見ると多くの人々が護岸から落ちるように川へ吸い込まれ、川の上を炎が流れて行く、、それでも渡りたかった。

私の祖父は、関東大震災で両親と弟や妹達を全て亡くし、ただ一人残されました。祖父が亡くなった年が昭和37年の7月で私が生まれたのが翌年の5月ですので詳しいことは聞いていませんが、両国周辺は全て消失していますので、祖父には何も出来なかったと思います。
まだ奉公の年齢だったので、祖父の気持ちが偲ばれます。言葉では語らなかったそうですが、ずっと気にしていたから、工場建設地も隅田川沿いの緑町を選んでます。

この国で生きる限り、震災は避け難く仕方が無い事かも知れませんが、まだ少年だった祖父に家族を失わせたく無かった。

銀座の奉公先で覚えた仕事は商いでしたので、祖父の本業は金物店でしたが、お店で商う木ネジや釘を生産する為の工場を足立区に創りました。戦時になり金物の商いが出来なくなり工場は軍需工場として徴用され終戦を迎えていますが、工場にいるのが楽しくなったらしく金物店を長男に任せ晩年はボルト作りに励んでいます。

モノ作りには可能性が有ります。

時間を戻す事は出来ませんが、明日を変える事が出来るかも知れません。

私にとって、1%でも良いから耐えてくれるボルトを作る事は、大切な家族を守る事と同じになります。

生まれた時期からよく祖父の生まれ変わりと言われて来ましたが、生まれ変わる事は無いですし考えも性格も似ていないと思いますが、祖父の運命を変えてあげたかったと思います。つなげて頂き有難う御座います。お疲れ様です。

この川辺に桜が咲く時、くりかえし幸せを願いつづけます。